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皐月病み胃の腑に何の咎やある(無骨)

梅雨 早くも五月は行き過ぎてしまった。まったく何もしないうちに時は滔々と流れてゆく。こんなはずではなかったといったのはお富さんだったが、今生には時の勢いに勝てる存在はありはしないのだから、流れに身を任せるほかにいかなる処世もないということだろう。

三月末に、それまでの不摂生が祟って(とはいいたくないが)、激しい吐血に肝を冷やしたし、その後は養生にこれ努めてきた(とはいいがたい)甲斐もあって、いちじるしい回復だと自画自賛というのも変だが、たしかに以前ほどには痛飲しなくなったのは、もう少しは生きていたい、仕事がしたいというささやかなこころざしの表れだったか。

それにしても今年の春にはまるですべてが心をそろえたようにちいさな花々が一斉に咲き乱れ、咲き誇ったのは僥倖であったし、空恐ろしくもあった。そして花おのおのが咲きだし咲き満ちて、いったいあと何回の乱れ咲きに出会えるかなどと、お決まりの感慨に落ち込んだのも事実である。わが身の老齢を感じるとはこういうことをさしていうのだろうか。パソコンの大修理(改造)に三週間も費やしてしまった。XPとやらの余波でもあったのだが、さて、ソフトもハードも一新したというが、わがソフトとハードはどうか。いかにも旧態依然じゃないかとだれに言われるまでもなく明確に自覚はしているのだ。(14/06/01)

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血まみれの昭和に桜花慟哭す(無骨)

images 国を守る方は、例えば自衛隊の広報にもある通り、国民の生命と財産と自由と国土を守ると言うんだけれども、いったん戦争になれば、国民の生命、財産、国土、自由は守れるはずがないんで、大変な荒廃を呼び起こすでしょう。/ しかも、いま危険なのは、これまで軍備というのは戦争をさせないためと言われたのが、だんだん、万一の戦争に備える方へ日本を含めてあらゆる国々も指導者が移行しつつあるんで、これを民衆が止めなければ、いままで抑止力の名においてやむをえず軍備をやっているんだという建前のスローガンだったのが、今やそうじゃなくて、ひょっとして起こるかもしれない戦争に備えるんだという戦争準備の方向へ変わりつつというのはたいへん問題なところですね。(「核には『西』も「東」もない」)

 この発言の主は久野収さん(1910~1999)。時は1982年5月です。いまから三十年前も時代状況はいまと少しも変わらないのも、考えて見れば当然で、とにかく国家の威信を自らに重ねて得意になろうというさもしい根性に毒された支配者輩はいつの時代にも棲息するという事例に過ぎない。それにしても奇天烈なのは、右も左も金・カネ・かねの亡者が列島(劣等)に巣くっているという、どうしようもない頽廃の風塵の喧しさ。カネになるなら戦争も辞さないというのは恐るべき蒙昧の仕業だと思うのですが、その無知蒙昧が世間を乗っ取っているんじゃないかと空恐ろしくなるのです。もっとほかに、さらに大事な政治の要諦があるじゃないかといっても聞く耳も、解する脳もないのではと思われる有象無象が徒党を組んいる、この現実をどうしたものか。

 「積極的平和主義」とは何の謂いぞ。自分は兵隊にならないとみんなが勝手に信じようとしながら、いつか戦場にひかれるのは誰でしょう。人ひとり殺せば殺人犯だが、別の場面で何人も殺害したなら、叙勲ものでしたし、それは今も変わらないのかどうか。戦争が起こるのはカネの問題からです。そして、いまこの列島は金の亡者が蠢いている。原発事故を風化させない、震災被害を忘れるなというのはその通りです。しかし戦争の罪深さを棚に上げてなら、それに対してなにをか言わんやです。やられる前にやっつけろというのは無恥で無知の無頼漢の常套語ですね。本日は「昭和の日」だとか。昭和も遠くなったのだろうか。(14/04/29)

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石楠花の紅ほのかなる微雨の中 

 気がつけば今日は土曜の入り。立夏を前にしてものみな装いも新たに身だしなみに精を出している。小さな庭の海棠は見事に花を開いてくれた。なけなしのネコの額の土一升だが、それでも季節を演出するのだから、頭が下がる。また数本の山吹もまた、可憐な黄花で飾ってくれた。青邨の句にあった。山吹にすこしの風もなく暮れぬ かくして、わが眼前に石楠花の百花がいまを待ちかねて爆ぜようとしている。(表句は蛇笏)横を見れば、白椿の落花狼藉。場所を選ばず、人を選ばない木々や花々に頭を垂れるばかりである。芭蕉もそれを愛でている。草いろいろおのおの花の手柄かな

 春は名のみの風の寒さやと歌おうとして、もはや列島(劣等)の各地には夏日が到来している。夏日とはなんのことかしらないが、いずれ役人の無粋な仕業にちがいない。夏日であれ、春日であれ、森羅万象にいのちの宿る果報をつゆ疑わない、そんな健気な日常をだれにも邪魔されたくない。「帝力なんぞ我にあらんや」 風塵のあまた降りける春の宵(無骨)(14/04/17)

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鬼の霍乱

kanran 霍乱(かく‐らん【▼霍乱】クヮク─〘名〙漢方で、日射病。また、激しい吐き気や下痢を起こす急病。「鬼の─」)(明鏡国語辞典)。蹴っても叩いても病気になどなる気遣いのない頑丈な人が罹患するさまを「鬼の霍乱」というらしい。ぼくはもちろん鬼でも蛇でもない(つもり)のだから、この「日射病」ではなかったのですが、3月末にはげしい目眩(めまい)と悪寒がして倒れました。そしてやがて突然の吐血。自分では「ああ、またやられたな」という程度に構えていたのですが、いっかな吐血は止む気配がない。相当に吐きました。夜の10時過ぎのこと。あるいはひょっとしてと、いやな気分に襲われて、出ない声をふりしぼり連れ合いを呼びました。と、ここまで書いてきて、不摂生の不始末を綴る気にもならないので、やめておきます。つまりは重篤な胃潰瘍であったという話。翌日医者に。麻酔をかけられ、カメラを飲まされ、血を採られ、さんざんでした。医者曰く、「あなた、血が少ないよ」だって。あたりまえでしょ、あんだけ放出したのだから。

 ところが、これだけでは終わらなかった。4月8日だったか、夜中にふたたび悪寒がして、体の骨組みが壊れるんじゃないかと思ったくらいに震えが襲った。それはそれは激しいもので、初めての体験でした。歯の根が合わないどころか、手足がばらばら、てんでんこに振動して、まるで自動人形が制御不能に陥った按排でした。落ち着くのを待って体温を測ったら、39度4分。これも何十年ぶりかの高温。地球温暖化とは関係ないのか。我ながら驚きましたね。これはいったいなんの予兆か、と。一週間経ってもまだふらつきます。寝たり起きたり。下戸の酒好きですが、アルコール類はきつく禁じられています、愛すべき鬼に。

 晴れてフリーター(無所属)になった途端のジェットコースター(急上昇と急降下)です。日ごろ、ジェットコースターはいけない、観覧車にかぎるなどどうそぶいていた挙げ句のこの始末、しばらくは自重というか、自嘲するにしくはないということでしょうか。しかたなく、こんな駄文などを書いている。気散じにもならない。(14/04/15)

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無為といふこと千金や春の宵 

14/04/03 新たな年度が始まりました。学生時代のあともなお、半世紀近くにおよんで、四月が事始めであった。春うららの卯月に心して一年の無事を祈りつつ、ささやかな身の上をしもささやかなりに恃むところがあったと、われながらに思う。しかし、いまはまた、別乾坤にわが老躯をおく次第となりました。人の生(世)に「老後」だとか「余生」などというものがあるのかどうか。その言い草は、まるでお釣りか、余り物の感がぬぐえない。ぼくにはおよそありえない爾余という気がするばかりです。思いあまってというわけでもないけれど、房総の山中に、これまたささやかな庵(いおり)を興して、爾余ならぬ痩身を奮い立たせようという殊勝な気分に襲われたのです。「帝力なんぞ 我にあらんや」と。 長生郡長柄町山之郷に仮寓する四月の風は狂おしいばかりだ。表句は風生。(14/04/03)

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旅人の鼻まだ寒し初ざくら 

 花冷えもまた、春の訪れ。世情はいつに変わらず物情騒然。西に東に浮き世の薄情が重たく人心を覆いつくしています。これを快哉といっていのかlどうか、袴田巌氏の再審決定と釈放が報じられました(03/27)。48年目という無情であり無常でもあるでしょう。証拠は捏造で、自白は強要であると、静岡地裁は言いきったのです。しかし、その同じ法廷が「死刑」と断罪し、再審を却下するという無法を犯したのですから、いったい、司法はどこに足場を築いているのか。同じ証拠と調書にもとづいて黒といい白という。まだ、再審開始から無罪への道は遙かだと思われます。かりに無罪放免となった暁に、では「死刑」を言い放った裁判官や「死刑」を求めた検察になんの咎めもないのですから、実に不当な法律(権力)行使であるというほかありません。

 人の世に幾千万の日常があろうとも、あるいはそれが悲喜交々の情感に満たされていようと、時は転変し、春はまためぐり来ます。月日は百代の過客にして、また旅人なりとは芭蕉翁の感懐であり、旅人の鼻の寒さを託つのは蕪村です。花に浮かれ、匂いに気もそぞろになるのも、やるせない日々を送る身過ぎ世過ぎの処方でもあるのです。同じ花や匂いに遭遇するなら、人気(じんき)の絶えた境地で味わいたいものです。鼻まだ寒しならぬ、鼻まだ白むなどいうのは、金輪際ご免蒙りたいですね。(14/03/28)

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為し得ること何をか残す老の春

 人並みに齢を重ねて、そぞろに気が重い。あらたまってわが身のつたなさをかこつばかりである。掲句は富安風生氏。このとき、彼は卒寿前だったと思う。それからすると、小生など「何をか残す老の春」などというのも生意気千万で、老いを云々する資格はなさそうである。いわく、「人並みに」というのはわれもまた、市井の一庶人たらんとして、まだ足りないと自覚を働かせるべきなのだろう。

 身につまされて、みずからの足跡をふりかえるような惨めな所業には及ばない。「まだまだ、まあだだよ」と言い募りながら、ささやかに歩きつづけたいと、これまた平々凡々の日常を営むほかあるまい。(14/01/06)

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