Before All

 本棚2 なにをおいても、本を読もう

 とにかく、本は読まなければ始まらない。自分の手で頁をめくり、自分の目で活字を追う。それが読書なら、この世のすべては本であり、ぼくの読書の相手じゃないか、そんな風にも思えてくる。この世のあれこれを一冊の本と見れば、良書より悪書に満ちているとうんざりするが、だから一服の清涼剤ではないが、ささやかな風景や景色、人間模様に心を洗われるという幸福もまた、少ないだけに貴重な読書体験となるのだろう。だから、ぼくは良書にめぐり会いたいために、無数の悪書を乱読するのである。こういっても、良書と悪書はあきらかと区別されるものではない。良書はときに悪書になり、ある人には悪書であっても別人には良書であるというのはいくらでもあるからだ。その昔は「いい本だなあ」と感じ入ったのに、後年には「なんとくだらん」となることだってある。ようするに本の価値が変化するのではないだろう。あるいは本に価値があるかどうかすら怪しい。それを決めるのは読書する側の仕事だからだ。世の中というこの大部な本もまた、活字ばかりでなりたっているとは限らないのである。(11/08/27)

 なんの脈絡もなく乱読しています。手当たり次第といった趣で、まるで時間つぶしのごとくに読んできたし、いまも読んでいる。これを読書というのかどうか。長田さん流にみれば、読書家の風上にも置けないということになるか。ならば、風下にいても害にはならないだろうと思うばかりです。自分のなかに本の置き場所を作るといわれても、読んだ後から記憶を失っていくし、読んだ記憶を失うために、また新たな本を読むという話です。読んでいる瞬間が楽しいし、苦しい。若いときはノートなどをとって読んだものだが、よくもそんなことができたなと、いまにしてあきれかえる。そして、読んだ本はどこへ行ってしまったか。(10/12/31)

 「読書というのは、本を読むというだけのことではないのだ。本を自分の日々のなかに置いて、自分にとって必要な本の置き場所をつくる、そういう日々のあり方をすすんでもちこたえてゆくというのが読書なのだ。いつの世にも読書というのは、その人の人生のスタイルのことなのである」(長田弘「悦ばしい読書」朝日新聞・09/10/22)