p 祈れども踏むべき道は

 12月08日は「太平洋戦争」の開戦から70年目だった。今では遙か昔の記憶の彼方に消されてしまったかの感がある。震災やら原発事故やらでおちおちと回顧にひたる暇などあるかと言わぬばかりに、上も下も惚けたように、目先のいのちに齷齪している。はたしてこんな頽廃の時代をぼくたちは待望していたのだろうか。ここに引き出した一冊はその内容といい、思想としい、その姿勢に至るまで、異様というほかないものだといいたい。横暴傍若、なすすべなき権力に身を賭してまつろわなかった一学徒兵の魂が残さなければならなかった記録だ。小さな抵抗というけれど、帝国軍隊には看過しえない存在だった。

 一九四四年春私は学徒兵として、大中華民国河北省深県東巍家橋鎮(現在の中国)という小さな屯に派遣された。駐屯部隊の一兵として教育訓練の日々を送っていた。鉛色の空が時に雲を薄くして日が射すかと思わせるような、すっきりしない日和の朝食の刻であった。内務班と呼ばれる兵等の居室で、折畳み式の細長い座卓を並べ、一五名の兵に担当分隊長一人、分隊付上等兵(分隊長の補佐、班付ともいう。自衛隊における士長)一人計一七名が朝食を摂っていた。いただきますという兵等の声が響いて幾許かの時間が経った時である。ばん!と食卓を叩き付けるような音と共に班付が立上がった。兵等は驚き一斉に班付の顔に視線を当てた。兵営内は朝食時間の静寂を刻んでいた。班付が口を開いた。(渡部良三『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』岩波現代文庫版、2011年11月刊。親本は94年シャローム図書より刊行)

 学徒動員の後、いくらも経たない新兵を戦場に送り、一人前の兵隊(「人殺し」)に仕立て上げるために帝国陸軍は野蛮で残虐この上ない方法を採用していた。「戦闘時における度胸をつけるため」であった。

 「飯を食い乍らでよいから聞け。分隊長殿に代って伝達する。今日は教官殿の御配慮によりパロ(八路。中国共産党第八路軍の略。現在の人民解放軍の前身)の捕虜を殺させてやる。演習で刺突(しとつ)してきた藁人形とは訳が違うから、教官殿の訓示をよく聞き、おたおたしないで刺し殺せ!おどおどして分隊長に恥をかかせたりしない様にな。いいか・・・・」/ 驚愕と戸惑いと共に、どうにかならないかという漠然たる観念の堂々めぐりの中で、最も重要な位置を占めていたのは、この殺人演習を拒否すべきかであった。小さい頃から、自分の命も他人のそれと同等に置けない人間は、神の教えに背く者だと躾られてきたことに思いを致せば、当然、聖書の〝汝殺す勿れ〟をあげる迄もなく、答えは拒否の一事しかないのに、自分がどうしたたらよいのかなどと考える事自体異状であった。故郷を後にする時、山形の小さな旅館で、何時間かを過したあの日、父から与えられた言葉「・・・・お前はこれから戦争に征くが、私の知っている限り日本の軍隊はお前のその冷めた眼を容れる事はないだろう。多分生きの限りを一兵士として留めるだろう。今別れて戦地に行ってしまえば、父親として何もしてやれない。一言の助言もできない。それが切ない。しかし良三、どうか神に向って眼を開いていて呉れ」「最近内村鑑三先生の聖書の研究を読んでいたら、こう言う事が書かれていました。〝事に当たり自分が判断に苦しむ事になったら、自分の心を粉飾するな、一切の虚飾を排して唯只管に祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる〟と。だから心を粉飾することなく祈りに依って神様のみ声を聞くべく努めなさい。お前の言葉でよいのだ。言葉など拙くてもよい」

 祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり  いのち耐えつづれとまがうその胸をなおし突けとうこれの酷さよ  虐殺(ころ)されし八路(はちろ)と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや

 「殺す勿れ」そのみおしえをしかと踏み御旨に寄らむ惑うことなく  すべもなきわれの弱さよ主の教え並いる戦友に説かずたちいつ  「捕虜を殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ  天皇はいかな理(わり)もてたれたもう人殺すことかくもたやすく  「捕虜殺し拒める奴はいずれなる」週番士官は興のあり気に  「渡部二等兵一歩前へ!」の号令に週番士官確かめ終えつ

 「天皇の命令」を拒んだ二等兵はその後、凄惨を極めるリンチを加えられた。奇跡の帰還を果たし、四〇年を経てこの「歌集 小さな抵抗」は編まれた。(11/12/08)