r それでも新聞をつくり続けた

 河北新報社。1897年創刊。「白河以北一山百文」と明治以来、東北地方は貶まれてきた。それを逆手にとって都会地に弓を引く志を標榜して社名とする。全社上げて震災報道に呻吟し、苦闘しつづけた半年の軌跡を記した『河北新報のいちばん長い日』。河北新報社著。副題は「震災下の地元紙」(文藝春秋刊、11/10/30)。ぼくは何年も前からKolnet(新報社のWeb版)を読んできました。我が名は「大新聞」といい気になって、時には媚薬、その大半は毒薬と見まがうばかりの活字を垂れ流している某々新聞に嫌気がさしていたし、「一山百文」だとほざいたな、という心意気に感じてのことでした。震災発生当日から、息つく暇もない新聞作り(製作・輸送・配達)に精魂を傾けて邁進するその姿勢には一貫して「地域に生きる」「被災者に寄り添う」という地生えの精神が生きている様が如実に読み取れます。(この書籍は新報社の友人から寄贈していただきました。深謝あるのみ)

 「われわれは地域の住民に支えられて百年以上、この地で新聞を出すことができた。その住民が大震災で苦しんでいる。今こそ恩に報いる時だ。わが社も計り知れない打撃を受けるだろう。だが、いかなる状況にあっても新聞を発行し続ける。それが使命であり、読者への恩返しだ」(地震発生直後の一力雅彦社主の言)「『紙齢は絶やさない』。たとえ未曾有の大震災に見舞われてもだ」

 震災後は毎日のようにKolnetを開きました。凄惨な状況を記録する活字の裏で、悲劇の修羅場を活写する写真の下で、その任に当たった人々がどれほどの困難に見舞われたか、本書は詳らかにしています。死者と生者の分かれ目、配達に身を賭した販売店、原発事故の恐怖と新聞人の使命感、・・・日々刻々と悪化する状況と、それでもなお前に向かい被災者に寄り添う姿勢を堅持しようと苦悩する新報社。新聞とは、報道とは、地域紙の仕事とはと、まるで一つの新聞社が前から後ろから襲ってくる艱難に身もだえしながら、みずからの進むべき道を切り開いていこうとする。こんな新聞がこの時代にあるのだ、そしてこれはけっして河北新報社ばかりではない、地域に生きる多くの新聞社の姿をも示してくれています。

 一本の記事、一枚の写真に心を奪われる。その切りとられた「現実」は読後に余韻を残すことはあってもいつか記憶の彼方に消えるかもしれない。それは読者の側だけのことではありません。記者やカメラマンもまた、記事や写真のその後を気にしつつ、新たな「現実」を求めることに忙殺される。そのような隘路を打破するためにさまざまな連載が企画され、詳細を極めた「その後」が紙面に開かれるのでした。かかるおおきな企画連載を前にしてぼくはどれほど勇気づけられたか。「その後」を知らされるにつけ、無念やるかたない想いに襲われたのも事実ですが、それを知らないままに忘れ去るよりはるかに貴重な体験となるのでした。「震災発生直後は見えなかった問題が、数ヶ月後に顕在化して被災者たちを苦しめることもある。それらを丹念にフォロ-できるのは、地元紙しかない」

 ライフラインが途絶したとき、わたしたちは何をもってみずからの現実を知ることができるのか。被災のただ中にありながら、一切の情報が遮断されました。そのときほど、新聞の威力は発揮されたのでした。

 地震発生翌日の新聞(03/12)は言い表せない苦闘のなかから読者に届けられました。一読者からの手紙が紹介されています。これを読み、新聞人でないぼくも「新聞人冥利」に尽きました。「目の前が明るくなりました。取材して記事を書く人、配達する人、そういった大勢の人たちとつながっていると感じられたからです。/ とくにうれしかったのは、『河北春秋』と『社説』でした。混乱の中、冷静でまとまった文章を読むことができたからです。/ ・・・新聞=ニュース、としか思っていませんでしたが、そうではなかったのだと気づきました。励ましや共感、あることに対するいろいろな角度からの意見などが詰まっているのです。いま、私にとっての新聞は『毎朝のプレゼント』です」

 「新聞はいのちの支えだ」といいたくなる新聞があった。(11/11/12)