t 義理と人情

 宗教学者の山折哲雄さんの新著『義理と人情 長谷川伸と日本人のこころ』(新潮選書、11年10月刊)。いまではまったく忘れられた作家となった長谷川伸(1884~1963)。横浜日ノ出町生まれ。生家は土木請負業だった。四歳の時、母親が家を出た。父親の道楽がもとだった。小学校三年で学校を辞め、その後は世の中で苦労を重ねた。さまざまな職業を転々としながら、都新聞記者となる。同時に、小説や戯曲を書く。『沓掛時次郎』(昭和三年)、『瞼の母』(昭和五年)、『一本刀土俵入り』(昭和六年)など。このような「股旅者」をよくしたが、それはけっして外れ者の一代記で終わっていないというのが山折さんの長谷川論の核心です。

 「長谷川伸は明治の人である。母親とは生き別れ、小学校も卒業せずに、父親がやっていた土木請負業の世界に入り、さまざまな職業遍歴の末、作家となった。その作品のフィクションとしての完成度はきわめて高く、そこには氏自身の実体験がしみ通り、独特のリアリティをかもしだしている。江戸時代からつづくアウトローの世界もよく知っていた。民俗社会に深く根づいた掟(モラル)についても、体で知っていた最後の作家だった。/ 長谷川伸はこれまで、しばしば股旅作家とも大衆作家とも呼ばれてきたが、そこに描きだされる人間群像の特徴は、いずれも暗い過去を背負ったはぐれ者たちであり、社会的な弱者や敗者たちだった。そしてこのような人々の生活は、かつての日本の庶民の世界ではけっして珍しいものではなかったのである」 ここで山折さんは佐藤忠男氏の『長谷川伸論』を引き、「日本人は神を信じないかわりに人間を信じたのであり、人間の“想い”とか、“怨み”とかいったものを信じたのである。それが信仰としては祖霊信仰や生霊死霊のたたりの思想となり、日常のモラルとしては、人間の期待を裏切ってはならぬ、という、義理人情の思想となったのだと思う」という解釈に満腔の同意を与える。「私は右の一文にふれたとき、それこそ目からウロコが落ちたような気分を味わった」と。義理や人情というけれども、それはけっして外道や野郎の専売ではなく、むしろ日本の民俗として深く庶民の心中に萌すものであったのだ、それをこそ長谷川伸は明らかにしようと生涯をかけたのだったというのです。今では名もなき衆生のなかにさえ見つけるのが困難なこの義理と人情、長谷川伸という作家はここに列島に生き死にする庶民の生きる形を見いだしたのだと結論する。

 宗教学者の山折さんには特異な著書で、一読していかにも異様な感想が沸いた。山折哲雄が消え、長谷川伸が蘇ったかのように感じた次第なのである。またどうして山折さんが長谷川伸に深入りするのかもよく分からなかった、くりかえし、そのあたりの事情を山折さんはかきくどいているにもかかわらず、です。

 余話ながら 四歳で分かれた実母と四十七年ぶりに再会した(昭和八年二月)。母の再婚先に三男五女の異父弟妹がいた。長男は三谷隆正(一高教授)、次男隆信は外務省官僚、後に侍従長。その他、当時にあっては伸とははなはだ異質な階級に属する人たちがいた。実母との再会を果たした後、長谷川伸は『瞼の母』の上演や上映を禁じたという。(長谷川伸を語るに「戦争捕虜」に触れないでは意味をなさないので、この稿はいつか再論)(11/10/31)