年忘れ忘れてならぬ恩ひとつ

 あれよあれよという間に、一気に世界の嫌われ者になりはてようとしている。この国のあれやこれや、すべてをあずけたはずはないのに、まこと独りよがりの傍若無人ぶりです。沖縄選出の国会議員諸氏を恫喝し、オレの言い分を聞かぬなら、後で泣きを見るぞとねじ曲げた挙げ句、知事の乱れた心模様を大枚の税金の大盤振る舞いで萎縮させたその振る舞いをなんとしよう。そして「御霊よやすらかなれ」と、いかにもおのが信条を貫通するぞと言わぬばかりに九段坂を一気に駆け上がったのでした。「在任一年の報告をした」とはどのような言いぐさか。「英霊」に報告する眼目は他なし、「戦争をする国」に舵を切った、それはおのが手柄だという語るに堕ちた報告だったというのだろうか。「日本を取りもどす」と切った啖呵も、底が知れたというものです。「オレの手に権力は掌握した」と、世界にそのアナクロな姿を誇示したいばかりに、列島の住民もまた地上の「孤国民」になるという、道連れ(道行き)はゴメン被ると言わなければなりません。それにしても、だ。一体何のために虚勢を張るのか。「積極的平和主義」は米国の専売だと思っていたのは迂闊だった。その親分を差し置いて(出し抜いて)、いまや高らかに去声をを発したのはいかなる虚勢からだったか。これはもはや限界を超えた所行だと言っておきたい。沖縄県の知事もまた、正体を晒してしまいました。「県外移設」を一方の舌で論いながら、もう一枚の舌で「辺野古」だと。有史以来の「政権の配慮」が、今に始まるでなく「空手形」であったのは、この百年に及ぶ「大和」の仕打ちだったのを忘れたふりをしなければならないほど、無軌道な権力者の脅迫が強かったと言うことだったか。あるいは千々(知事)に乱れた心模様には別の魂胆が宿っていたのか。いずれ狐と狸の化かし合い、それに巻き込まれないために最良の道があるかどうか。乾坤一擲、賢慮・熟慮を重ねて、確かな道を歩かなければなるない。(13/12/28)

 

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日曜にあたりて遊ぶ冬至かな 

 師走も半ばを過ぎました。去年・今年と、この列島に不幸不愉快数限りなしという状況は衰える気配を見せません。誰が悪いのでもないと観念すれば、矛先はおのれに突き刺さってくるのですから、心休まるいとまもないということになりま。いつの年か、冬至に遊ぶ余裕があったろうかと貧寒なわが身を託(かこ)つばかりです。(掲句は虚子) このあわただしい明け暮れがいつまでつづくのか、まことに覚束ないことおびただしい。せめて、寒い夜は、飛びきりのウマ豆腐をお鍋に仕立て、一献かたじけなくしたいという貧者の贅沢を願うばかりです。せわしないのは、なにも師走にかぎらないので、心の持ちようにゆとりを失えば、一事が万事、周章に終始するの理でもあります。今時、はやらない戦争ごっこを仕掛けるなどという頓珍漢が危ない権力の突端に立ち、あらぬこと、よしなしごとを計っているのは、どうしたものでしょう。好きこのんで彼ら・彼女らを選良として議会に送ったわけでもないといいたいが、いやいや、好きこのんで選んだのもまた、わが衆生であってみれば、とことん悪足掻きにつきあおうじゃないか、と言い募るのもまた、浅慮の悲しさであると観念しかかるのです。(13/12/18)

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短日やわれらおのおのの悔を持ち 

 今朝の日の出は6時半近く。まさしく短日(みじかび)の候となり、なにがなく心寂しくもありというなさけない感傷に襲われます。老残と思うのはあまりにも悔しいけれど、たしかにその気配は濃厚にあるのだから、なんともたまらない。街中の紅葉・黄葉のひからびて、虫食いにさらされた落葉が薄汚く舞い散る哀れをいかにせん。世情は頓に頽廃・軽佻の急坂を転げ落ちる惨状になすすべもなく、というような目も当てられない事態です。東西南北、右折ばやりの昨今、左折はおろか直進するのも厭われるからこそ、わがこころざしに問い返さなければならないのです。時勢に棹さす思いは軒昂だと言いたいけれど、その心意気もまた、棹さした時勢の上を流されていく。にもかかわらず、だからこそです。ささやかな抵抗というのもはずかしい、ささやかすぎるレジストをわが骨頂と見定め、貧相な背骨を伸ばして短い日溜まりを彷徨うばかりです。表句は加藤楸邨。(13/11/23) 

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秋の暮金星なほもひとつぼし 誓子

 狂気じみた猛暑がいつとななしに終わったかと思うほどに、まるで肌寒さが身にしみる季節の到来です。なにも、天候の加減ばかりではないのもたしかで、身過ぎ世過ぎに齷齪しているうちに、我が貧寒たる生活にも秋の訪れがはっきりと感じられるばかりでなく、あるいはそれはもう晩秋なのではないかと、ひやりとしながらの「肌寒さ」です。列島の秋の夜空にはいずこでもおなじように、「ひとつぼし 金星」は朝な夕なに輝きをひときわ放って、粛然と軌道を描いています。東天から西方の空に、刻々と時間の経過をえがきながら、秋の夜空に孤影を際だたせているのを眺めるにつけ、我が貧窮の精神のさらに衰えたのを淋しく認めざるを得ないのです。

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能率を求めて手続きに走る(承前)

 日露戦争までの日本とそれ以降のこの国のかたちは変わってしまったとよくいわれます。その理由は何か。何事にかぎらず、原理原則という問題意識が消失して、すべてが「手続き」(手順、あるいは段取りといってもいい。それも集団にとってのそれではなく、集団内で自己を肥大(自己顕示)させるための手順であり段取りに終始してしまう)に集中してしまったというのが鶴見さんの見立てであり、あるいは司馬さんの見方でもありました。二・二六事件やノモンハン事件などその典型であったといえるでしょう。はっきりした見取り図もなくクーデターを起こそうという無謀さ加減。戦う明確な根拠もなく軍が暴走(独走)して、モンゴル・ロシア軍に突っかかっていく、完膚無きまでの敗北を喫したにもかかわらず、国民にはその事実を最後まで隠しとおし、大東亜戦争に突入する。「もうダメだ。終わりだ」と参戦中の兵士をして慨嘆させるほどの頽廃の風潮が蔓延していたのです。

 鶴見 どうすれば陸軍大学に行って少将になり、中将、大将になれるかという「手続き」の問題があって、どうすれば日本が負けないですむかとか、そういうことは考えない。軍人の任務は、そのことを考えることなのに、そういうことを考えなくなっちゃう。軍人は凶器を持っているわけだから、どうすれば暴れ回らないようにできるかという自己統制の問題も落っこっちゃう。凶器を持っている人間の集団が、いったいどうすれば凶器を使わないですむかというのが軍の原理問題でしょう。(前出)

 学歴社会といわれて久しいが、この現象もまた「手続き」問題に貫かれていたといえます。なぜ大学に行くのか。こうしたい、ああしたいという大学進学の核心部にかかわるような動機はない。あるいは問わない。とにかく「いい企業」「いい官庁」に就職したいという「いい、いい、いいところ目線」一直線の盲目ぶりが偏頗な「学歴・学力社会」を現出したのはたしかです。もうそんな惨状はとっくに終わってしまったと思いきや、一周遅れで学歴競争に参戦した学校現場では、いままさに格闘の最中にあります。(昨日はそんな健気な格闘ぶりを示している高等学校にいって無駄話をしてきました)。教育の原理はほっぽり出されて、いかにも「手続き・手順・段取り」を競っているという図です。これは教師の責任なのか、親の責任なのか。それとも、子どもの問題なのかという些末な局面を通りこして、社会は病んでいるのです。つける薬はあるのかどうか。薬石効なくとなるのだろうか。(13/08/28)

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能率を求めて手続きに走る

 立秋(8月7日)もとっくに過ぎたにもかかわらず、連日連夜猛暑日や真夏日が続いている。熱中症に罹患する人が後を絶たない。これはなにも生活の日常に見られる風景ではない。政治の世界もまた、まれに見る熱中症の時代であると言えば、今昔の感を拭えないのである。第二次大戦にいたる昭和10年代から20年8月まで、まことに列島は熱中症が猛威を振るっていたからだし、その後の何十年にわたる時期も、それにおとらず猛烈な暑気・熱風に人心は攪乱されてきたからだ。鶴見さんと久野さんの対談書を再読三読していて、いまさらのように、この国の狂乱・狂気にめがまわる思いをしているのである。

鶴見 司馬遼太郎さんの『この国のかたち』という、月刊『文藝春秋」の巻頭論文を集めた本の第一冊が出たんですが(90年3月)、私はとても感心しました。司馬さんは現代に対して単純な感情を持っている。先の戦争中に戦車隊の小隊長で(埼玉県)熊谷にいた。アメリカ軍が東京へ上陸してきたらどうなるか、ということを中隊長に聞いた。難民が東京からどんどんこちらにやってくる。戦車が動かない。どうするのかと聞いたら、「難民を踏みにじって東京へ進軍する」と中隊長がいった。その時、司馬さんは「もうダメだ。終わりだ。人民を敵として踏みにじって何を守るのか」と思った。(前出)

 「あの当時、いざというとき、私どもが南下する道路の路幅は、二車線でしかなかった。その状況下では、東京方面から北関東へ避難すべく北へたどる国民やかれらの大八車で道という道がごったがえすにちがいない。かれらをひき殺さないかぎりどういう作戦行動もとれないのである。さらには、そうなる前に、軍人よりもさきに市民たちが敵の砲火のために死ぬはずだった。何のための軍人だろうと思った」(司馬『この国もかたち一』)

鶴見 司馬さんはそこまでしかいわない。高度成長以来、似たような図式になっているように私には思えます。私のことばで言えばどこが似ているかというと、原理原則を考えないで、手続きに埋もれてしまう考え方になっていると思うんです。(同前)

 震災や原発事故後の状況をなんとみるか。市民(国民)の苦衷・苦悩なんか眼中にない、そんな政治家(にかぎらず)ばかりではないか。災害や事故は千載一遇の好機到来と、一攫千金に汲々としているのが猛暑にあえいでいる列島の(常態となった)異様な夏の風物なのだ。(13/08/23)

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まともさの感覚(承前)

(鶴見) たとえば和辻哲郎という人は、非常に頭がよくてすぐれた人だと思うんです。おそらく世界の哲学者で、デンマークの外でキルケゴールを評価したもっとも早い人でしょう。キルケゴールの「一般者に対する例外者」という概念を評価して、「個人性」というのを大正の初めに出しているんですよ。そのあとも、日本の伝統の評価もとてもよくて、『古寺巡礼』などずいぶんいいものを書いていくんですが、だんだんファシズムの時代になると変わってきて、最後は「尊皇攘夷」になるんですからね。/ これが逆の感覚になれば面白いですよ。つまり大正時代に尊皇攘夷の研究をやって、昭和一八年、一九年にキルケゴールというのがいいんですが、あれだけ明敏で頭のいい人が、知能も高く教養も豊かな人が、状況とのかみ合いにまともさの感覚が欠けていたと思うんだ。そこが具合悪いんです。(前出)

 まともさの感覚というのはなにか。状況に翻弄されることはあっても、みずからの地軸を失わないような筋をどこかで維持しようとする、あるいはすっかりそれを放棄してしまわない、いわば嗅覚をもったヤジロベエの生き方につながるものをいいます。まともは筋道が通っていることを指しますが、生きている中で金輪際筋道を曲げないのは至難の業ですから、ときには左折しときには右折しながら、屈折しきらないでもとに戻る、そんな感覚をいうのでしょう。

 いまの時代、なんとも右折が目にあまるのです。道交法もふくめて右折禁止としたらどうか。(13/08/01)

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形式の問題

 久野 ぼくたち日本人は、気質としての正義感の情念は、大いに奨励されて、持っているんだけれど、自他両方を貫く正義の形式への感覚というものを習俗にまかせて育てようとしない。いや、気質の場合でも、岩波書店の吉野源三郎さんが終始実行しようとしていた〝敵ながらも、あっぱれ〟という、敵味方両方に通じる評価気質がないわけですよ。美意識にしても気質の美感であって、美の形式意識ではない。日本の一般人の美感をどうすれば、そこへ行かせるのかの問題をもっと考えて欲しいと思いますよ。

 鶴見 まともさの感覚というか正義なんですよ。同じ正義の形式上の原則(これは原則の原則と言っていいくらいの抽象的なもの)を違う状況の中で保ち続けるということが重大なので、常に教室の中で「一番」というのは、教室が変わるとその正義もどんどん変わっていくから、あてにはなりません。そこが問題だと思う。(久野・鶴見『思想の折り返し点で』朝日選書、98年) 

 いさましい空論が飛び回っている。空論が空論を呼んで、空中戦を闘っている状況のようであります。仮想敵に対して勇ましく、まつろわぬ隣人に対して居丈高になる。老いも若きも、がです。「まともさ」の感覚とはどのようなことをししていうのか。まともでない脳細胞ではたちまちのうちに、混沌としてくるし、挙げ句の果てには「問答無用」となるのは落ちであります。この難局を越えるのは至難のようでも、越えなければ、未来はありません。(13/07/29)

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国会は伏魔殿か、それとも・・・

 衆議院議員選挙の一票の格差を争った各地の高裁判決で16件中2件が違憲状態、14件が憲法違反、うち2件が昨年12月の選挙そのもののを無効と断じた。一人一票は法の下の平等を証明する憲法の要石でありと民主主義の中核だと思われますが、なんとも国会というところに住まう御仁たちは憲法違反などどこ吹く風といったていたらくというか、我が物顔で判決をなじる者まで現れています。身を切るだの格差をなくすだのというご託は並べても、いっかな一票の価値を重んじようとしてこなかった。それどころか、憲法違反を犯してまで実施された選挙で当選した議員さんたちは「憲法改正」の狼煙を上げる始末です。手に負えないとはこのことをいう。自分たちに不都合な憲法条文は無視して、誇りを持てる国だの、国防軍をもとうだのと、なりふり構わない異様な上気ぶりです。格差は2倍以内なら許容の範囲などと勝手な線引きをしないでもらいたいね。円高だ株高だと、まるでそれしか脳がないかのように吠える亡者たちの視界には、いったいなにが入っているのでしょうか。(写真は毎日新聞・13/03/26)(13/03/29)

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蕗のとうことしもここに蕗のとう 

ふきのとう 余寒というか、まるで厳寒のただ中に立つような明け暮れがつづいています。おしなべて今の世にいちじるしきものなしと詠った詩人がいましたが、彼もまた数多の寒さの中で生き死にしたのではなかったか。表題は山頭火さんです。世になじまられず、世になじもうとしなかった歌人もまた、おのが心中にとびきりの厳寒を託ちながらの放浪であったと、いまにしてつよく偲ばれます。だれが好きこのんで「たった一人の乾坤」を生きたがるだろうか。いかにも漂泊が終生のならいになったかと思われる山頭火ですら、数え切れない善人や妙好人に支えられ、甘えられたからの漂泊の慰みがあったのです。

 蕗の薹がまことに健気に頭や顔を出してきました。その顔出し頭出しは、「春がきたんだよ」と人間衆生にひとときの息抜きを授けるための年中行事のようでもあり、あるいは人間どもよ、好くも健気に生きつづけているねえといういささかの励ましでもあるかのようです。有頂天にならず、金輪際にもちかよらず、そこそこの善意と敬意で人それぞれがつつがなく生きられる春が来るように。(13/02/20)

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